アウディ、フォルクスワーゲン、BMWなどのエンジン・DSG・ミッション修理のご相談は、8台の車両診断機で対応する静岡県沼津市の「うしぶせ自動車」へ

中部運輸局 認証自動車整備工場

有限会社うしぶせ自動車

静岡県沼津市西島町19-25 〒410-0835
平成29年4月 移転しました。
TEL:055-931-9260 FAX:055-931-9412

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営業時間 8:30~17:30
定休日:日曜・祝日

お問合せはお電話で。

055-931-9260

代表者プロフィール(うしぶせ自動車@沼津市)

河田 憲一郎(かわだ けんいちろう)   

有限会社 うしぶせ自動車 代表取締役社長 

 好きな言葉 

 「人生二度なし」

戦後最大の哲学者と言われた森信三さんが言った言葉です。

二度とない人生をどう生きるか?

人に好かれて生きるのか、人に嫌がられながら生きるのか? 

人に喜ばれ、人に信頼される、良い生き方をしたいと心がけています。

 

略歴・資格

 略歴

昭和45年(1970) 静岡県沼津市住吉町にて出生

昭和59年(1984) 沼津市立香貫小学校卒業

昭和63年(1988) 沼津市立第三中学校卒業

平成元年(1989) 県立沼津東高等学校卒(香陵84回代表幹事)

平成6年(1994) 法政大学 経営学部 経営学科卒業 (4年間飯田橋まで新幹線通学)

平成6年(1994) 牛臥自動車勤務

平成9年(1997) レーシングカートに熱中。タツカートメカニカに、レーシングカートのエンジンチューニングの修行にでる。

平成16年(2004)(有)うしぶせ自動車に法人成り 代表取締役

平成17年(2005) 建設的な生き方のインストラクタートレーニングを受講 。森田療法内観療法を知る 。

平成20年(2008) 全国で200人の毎日新聞読者モニターになる。

平成21年(2009) 沼津市民がつくる「沼津市の財政白書」 代表。市民グループで出版。

平成28年(2016) 海上保安庁清水海上保安部から海上安全指導員に指定。

平成29年(2017)7月 静岡県自動車整備商工組合 代表理事に就任 

 

資格 

3級シャーシ自動車整備士

2級ガソリン自動車整備士

大型自動車免許、けん引免許、大型自動二輪免許

2級船舶免許

趣味

水泳(週1回30分以上泳ぐことが目標)

うしぶせ自動車のルーツ

旧牛臥(うしぶせ)自動車は、私がこの世に産まれる半年前昭和45年1月、父正一が沼津市我入道秋葉町に創業しました。

工場のすぐ裏の地名が沼津市下香貫牛臥でしたので、その地名を工場の名前につけたそうです。沼津市上香貫三貫地には1997年に移転し、平成29年4月現在の沼津市西島町に2度目の移転をしました。

 

父は沼津東高卒業後、富士市にあった大昭和製紙に入社。
社会人野球をしながらホワイトカラーで働いていたものの、「俺に事務職は向いていない」と、通勤途中で電車の車窓から見える「ツナギを着て働く人」に魅力を感じ、脱サラを決意したそうです。

 

脱サラのため、静岡日産さん、小菅自動車さん、みそのタクシーさんなどで、整備技術を教えていただき独立させていただきました。

 

昭和50年ごろは高度経済成長時代で、一般家庭にも車が普及しつつあり、一般家庭のお母さんが自転車の代わりに軽自動車に乗るようになり、さらに自動車が普及した時期です。

 

私が小学校に行っている頃はスズキアルト47万円が飛ぶように売れていました。

 

父はエンジンの載せ替えや商用車のクラッチ修理が入庫すると、従業員さんが帰ったあとよく一人で残業していました。


残業の時にはラーメン屋さんから出前をとり、工場の奥にある休憩室でカツ丼やラーメンを食べるのが楽しみでした。

 

父は朝は早く、朝の6時にお客様の車を引き取りに行ったりする人でした。

 

野球好きの父は、プロ野球の巨人戦を毎日見ていました。
爪楊枝をくわえたまま午後八時にはソファーでいびきをかいて寝る姿を思い出します。

 

当時の乗用車やトラック整備は、自重が200kgぐらいありそうなエアリフトを使い前輪を上げ、タイヤを外す。下回り洗浄、防錆塗装。その後、また後輪を上げ下にもぐり整備するなど、かなり体力を使う仕事でした。

今思えば「体を使って疲れて寝てしまっていたんだなぁ。」と思います。

 

日暮れが早い時期や、夜7時を過ぎた残業の時は、当時小学生だった私は、白熱灯の作業灯を照らしたり、手道具を渡すのを手伝っていたため、習っていないのに部品の名前や構造を知っていました。
門前の小僧、習わぬ経を読むです。

 

子どものころからこういった環境で育った私は、幼稚園の運動会でのタイヤ転がし競争は一番でした。


つづく

自分を活かす

平成14年8月、お盆休みの初日、高校時代の水泳部時代からの大親友からの携帯電話が2週間ぶりになりました。
 
私:「おーーー!元気?」
相手「あ・・、あー、河田・・・」(本人では無い、でも声が似ている。)
  「・・○○の兄の□□だけど・・・」
  「・・○○がきのうの夜2時ごろ、バイクで事故ってさぁ・・・」
  「・・頭を強く打ったもんで・・・医者にだめだしされちゃってさぁ・・・」
  「・・お別れに来てくれる?・・・」

友人・知人の中で最初に電話をもらったのが私でした。
電話を切ってから、沼津から静岡の病院まで1時間、涙が止まらず思い出すと今も涙があふれてきます。 それだけ、私にとっては大事な人間だったようです。

 

彼は、オモチャ会社に大学卒業後5年ほど勤め、他の会社に企業買収されたため退職し、大好きな故郷沼津に帰ってきました。 フレンチのシェフを目指し、自分の店をオープンする夢を抱いていました。

彼は事故から7日間脳死状態のあと、心臓が停止し天国へ旅立ちました。
一度きりの人生を終わらせたのです。

 

彼が脳死状態のときから、「弔辞はお前が読むんだぞー!」と彼の声がどこからか聞こえていました。

「弔辞を読むのは、俺かもう一人の友人だろうなぁ。」とその時から私も思っていたのですが、
もう一人の親友に聞くと 「俺は読まないよ。」と言っています。
「じゃあ、俺もやめとくかな・・・」と、紙と筆を用意したにもかかわらず、弔辞の準備をしませんでした。

葬儀の日、読経が終わり、弔辞の時になりました。

「弔辞をご用意されている方、前へお進みください」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」

葬儀会場に入りきれなかったほど人が大勢いたのに、弔辞を誰も読まなかったのです。

私はその瞬間、強く後悔し、自分が不甲斐無くて涙がでました。
おそらく、一番の大親友で、最前列の一番前に座っていながら、読まなかった自分を反省しました。最初に電話をもらった男なのに。

「後悔の意味」をその時知った私はその時から少し頑固になりました。
やるべきことは自分で決めて実行するのが「後悔しない人生」と思うようになりました。

 

彼は本当にいい奴で、周りに気を遣い、優しく、ユーモアいっぱい、周囲を明るくする人間でした。
少しさみしがり屋で、私の家に遊びに来るときは、いつもビールとつまみ持参です。

友人が全国にイッパイいて、今もみんなの胸の中には深く刻まれていると確信しています。
彼の様な人を大切にする生き方をしたいと、最近つくづく思います。

 

彼のお父様からいただいたお手紙をご紹介します。

「・・・明日何が起こるか分からない、今生かされていることに感謝する。
自分自身のため、人の為、世の為精一杯この今を大切に生きる事が、残された者に彼からのメッセージかなと感じます。・・・」

 

「二度とない人生をどう生きるか?」

彼から教わった教訓は、自分の能力をこの世にいる間に発揮すること、自分の知識や経験を文章として記録しておくことのような気がします。 

 

感動するフラッシュをご紹介します。

(リンクに飛ぶと、音が出るので会社では注意してください)

 

天からの封書

 平成18年5月、私どもが代理店をしている損保会社の31歳の女性社員のお通夜に参列してきました。  気さくな性格と人懐こい笑顔で、人間味があふれ、とてもよい人柄と感じていました。

 ゴールデンウイーク前までは、まったく異常が無かったそうですが、お亡くなりになる1週間ほど前、急に高熱を出し、懸命の治療の甲斐なくあの世に旅立たれたそうです。 急性白血病とのことでした。

 社交辞令かもしれないけれど、無くなる2週間前「憲一郎さん!飲みに行きましょうよー!」と言われていたので、一緒にお酒を飲めなかったことが残念でなりません。

「何事もはやくやった方がいいですよ!」とメッセージをいただいたと思います。
 葬儀に参列し、後ろの方でたくさん涙を流してきました。

 

戦後最大の教育者と言われる、森信三さんの言葉にこのような言葉があります。

「天からの封書」
われわれ人間は、おたがいに「天の封書」をいただいて、この世に生まれ出ております。
そこにはそれぞれ自分がこの世に派遣せられた使命の内容が書き込まれております。
少なくとも40歳までに、天から拝戴した封書を自ら開封し、しっかり読み取らねばなりません。
与えられた天からの使命を読み取るか否かが、その後の人生の生き方において雲泥の差が生ずることはいうまでもありません。
思えばなんと天の封書を読まずに人生を終わる人の多きことよ。

 

 私がこの世に派遣せられた使命となるようこのサイトを制作したいと考えています。

人間を不幸にしているエゴイズム

私が勉強していた「建設的な生き方」。

アメリカ人の文化人類学者、D・K・レイノルズ先生が日本の「森田療法」と「内観療法」を合わせて創案した再教育法です。

その中に、日々忘れがちなことがこの文章に集約されていたので、自分のためにも、内観療法の本の中にあった文章を載せておきます。


 

「人間を不幸にしているエゴイズム」

 

『私たちは、生きていく上で、さまざまな困った問題に出会いますが、ある面からみると「自分さえよければ、自分の利益になれば」というエゴイズム(自己中心主義)のぶつかり合いから生まれてきているといってもいいでしょう。

 たとえば、人間関係においてトラブルが発生したとき、多くの当事者は必ず相手を非難します。

「あの人さえあんなことをしなかったら、こんな問題にならなかったのに」と思います。たとえ万が一、自分に非がある場合でも、「自分も悪かったけれども、相手がもっと悪い」と考えます。

自分をかばおう、自分を正当化しようとするのは、当然なことかもしれません。

 人間関係だけにおさまらず、社会の中でも同じようなことが起きます。

「自分の会社さえ儲けることができればいい」という発想からは、さまざまな社会問題を生んできました。

ひと昔前であれば、工場廃液の垂れ流しによって全国でひどい公害が起きました。古くは水俣病、イタイイタイ病といった公害病から、現在では血液製剤によるエイズ問題やごみ焼却場のダイオキシン問題などは、こうした経済エゴイズムがもたらしたものといってよいでしょう。

 いつの世にも絶えることのない汚職なども、悲しいことに、関係者のエゴから生まれているのではないでしょうか。このような世の中に生きる私たちは、その影響から自由ではありません。

いつの間にか汚染されて、自分自身がエゴイズムのかたまりになったり、エゴイズムに毒された人たちによってつらい思いをします。その結果、過度の不安や人間不信は精神のバランスを崩し、やがて自己の基盤さえも揺るがしかねません。

不登校、過食・拒食、家庭内暴力、非行、薬物中毒、果ては自殺願望、あらゆる崩壊の序曲を奏で始めます。

 

支えられ、生かされている事実

 しかし、この世は悲しいことばかりではありません。信頼できる事実もあるのです。

私たちは生まれてから現在まで、多くの人々に支えられ生きてきました。

母親が私たちをこの世に生み出してくれた瞬間から、母親をはじめ父親、兄弟、友達、学校の先生、そして、社会の人々など、実に多くの人の支えで生きています。

また、食物や衣類など、生きていくために必要なありとあらゆるものは、多くの動植物や人間の労働によってもたらされたものです。

水や空気といった、あって当然のごとく思っているものでさえも、自然からの恵みなのです。

もちろん、家庭環境が恵まれていない人もいたでしょう。

しかし、客観的に見て不遇と言わざるをえない環境で生きてきた人でも、今まで生きてきたという事実の裏には、多くの人やモノの支えがあったはずです。

ひどい親であったとしても、ひょっとすれば、そこには親自身の苦悩や葛藤があったかもしれません。

こうしたことを多くの人は忘れてしまったり、無視しています。世話したことを覚えていても私たちは世話になったことを忘れてしまいがちです。

しかし、人間が人間らしく生きていくためには、この当たり前のことを自覚することが大切です。 』

 

 内観ワーク(三木善彦著)より抜粋

縁を活かす

私は中小企業家同友会という経営者団体に2001年ころから参加しています。

 月に1回の例会と委員会の「自主的な」開催が主な活動ですが、その会で頂いたご縁によりいろいろな方と出会うことができ、今の私があるように思います。

 その中でも、自社の社員でもないのに、優しく檄を飛ばしてくれるF社長が紹介して下さった話を皆さんにもご紹介します。

 

☆縁を生かす

その先生が五年生の担任になった時、一人、服装が不潔でだらしなく、どうしても好きになれない少年がいた。中間記録に先生は少年の悪いところばかりを記入するようになっていた。

 

 ある時、少年の一年生からの記録が目に留まった。
「朗らかで、友達が好きで、人にも親切。勉強もよくでき、将来が楽しみ」とある。
間違いだ。他の子の記録に違いない。先生はそう思った。


 二年生になると、「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」と書かれていた。三年生では「母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で居眠りする」。後半の記録には「母親が死亡。希望を失い、悲しんでいる」とあり、四年生になると「父は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、子どもに暴力をふるう」。


 先生の胸に激しい痛みが走った。ダメと決めつけていた子が突然、深い悲しみを生き抜いている生身の人間として自分の前に立ち現れてきたのだ。先生にとって目を開かれた瞬間であった。

 

 放課後、先生は少年に声をかけた。


「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない?判らないところは教えてあげるから」。少年は初めて笑顔を見せた。


 それから毎日、少年は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けた。授業で少年が初めて手をあげた時、先生に大きな喜びがわき起った。少年は自信を持ち始めていた。

 

 クリスマスの午後だった。少年が小さな包みを先生の胸に押しつけてきた。あとで開けてみると、香水の瓶だった。亡くなったお母さんが使っていたものに違いない。先生はその一滴をつけ、夕暮れに少年の家を訪ねた。

 

 雑然とした部屋で独り本を読んでいた少年は、気がつくと飛んできて、先生の胸に顔を埋めて叫んだ。


「ああ、お母さんの匂い!きょうはすてきなクリスマスだ」


 六年生では先生は少年の担任ではなくなった。卒業の時、先生に少年から一枚のカードが届いた。

 「先生は僕のお母さんのようです。そして、いままで出会った中で一番すばらしい先生でした」


 それから六年。またカードが届いた。

 「明日は高校の卒業式です。僕は五年生で先生に担当してもらって、とても幸せでした。おかげで奨学金をもらって医学部に進学することができます」

 

 十年を経て、またカードがきた。そこには先生と出会えたことへの感謝と父親に叩かれた体験があるから患者の痛みが分かる医者になれると記され、こう締めくくられていた。

 「僕はよく五年生の時の先生を思い出します。あのままだめになってしまう僕を救ってくださった先生を、神様のように感じます。大人になり、医者になった僕にとって最高の先生は、五年生の時に担任してくださった先生です」

 

 そして一年。届いたカードは結婚式の招待状だった。
 「母の席に座ってください」と一行、書き添えられていた。

 

 たった一年間の担任の先生との縁。その縁に少年は無限の光を見出し、それを拠り所として、それからの人生を生きた。ここにこの少年の素晴らしさがある。


 人は誰でも無数の縁の中に生きている。無数の縁に育まれ、人はその人生を開花させていく。大事なのは、与えられた縁をどう生かすかである。
致知2005年12月号より)

現在の私